MESSAGE
佐藤慧
Dialogue for People代表理事
フォトジャーナリスト
「ただふつうに働きたかった」、その想いを踏みにじるような、どす黒く、醜悪な暴力事件だと思う。と同時に、自己の中に存在する加害性と、自分もまた権力側であるということに対する自覚が希薄だったことに気が付き、嫌悪感を覚えた。個人の罪はもちろん贖われるべきだが、それは個人「だけ」の問題ではない。構造的な力の不均衡とジェンダー差別、その上にあぐらをかき、善人面をしながら無自覚に傷つけてきた人々のことを一顧だにしない。自分自身がまさにそうした社会構造の一部なのだと知り、どれだけ罪の意識を希釈したところで、やはり僕は「加害者」なのだと感じるようになった。しかし、そのように気づくことができた以上、変わろうとすることが自分に与えられた責務だろう。そして声をあげ続けること。傷ついた人々を矢面に立たすのではなく、加害側から変わろうとすること。ただふつうに生きていくために。
協力:NPO法人Dialogue for People
アサダワタル
文化活動家
反省します。気づけた可能性があったにも関わらず、これまで何もできなかったので。ハラスメントは、自己をえぐりだすテーマなのだと思います。誰にとっても決して無縁ではなく、当事者性が広く深いがゆえに、「あってはならない」と、本音では思えないのではないでしょうか?そう言ってしまうと、自分に跳ね返ってしまうから。自分自身や、自分にとって大切なたったひとりの個人の尊厳の危機に触れて、初めて、これまで過去に関わったあらゆるシーンを、「あのときの自分の違和感も、あのときのあの人の声も、そういうことだったのではないか」と振り返りつつ、この先に生かす他ない。しかし、一表現者としては、この事態に対して、言葉以外の表現にどう変換できるか、まだ答えはありません。それは法の世界でも、メディアでも、アカデミズムでも表せない、ひとの感受性、想像力に希望を託す何かです。僕は、今回声を上げた倫さんをはじめとした方々と、そういったアクションを共にできればと、模索します。
写真撮影:平林克己 提供:まえとあと
長津結一郎
研究者/文化政策・アートマネジメント
芸術は「炭鉱のカナリア」と呼ばれます。炭鉱で有毒なガスが発生した場合、人間よりもカナリアが早く察知し、そのうち鳴き声が聞こえなくなります。
芸術には、誰かがこのままじゃいけない、これではいつか痛い目を見る、と、見えていない将来をいち早く察知し、今ある常識を違う側面から見る、という力が備わっています。
ですが往々にして、なにかを察知する人は、組織の中で排除されがちです。権力を持つ者の考え方を強く押し付けられたり、危害を加えられたりすることで、芸術が育んでいるはずの力が奪われてしまうことがあります。
そこで肝要なのは、組織の内や外で行われるコミュニケーションです。
新しい視点や、うるさいかもしれない意見も、持ち寄ることができるようにすること。
正しさや、社会的な評価に基づいた同調圧力が形成されてしまわないためには、権力が行使されないためには、いったいどうしたらよいのかを、組織の側が考えていくこと。
そのことが怠られ、個々の声が蹂躙されることの悲劇を、いま私たちは目撃させられてしまっているのです。
福祉を志す、その原初にある体験は、何か。一人との出逢いや関わりで大事にしてきたことは、何か。それが失われてしまったのは、いつか。
開かれる未来で、朗々と唄っていたはずのカナリアの、その鳴き声はあなたに聴こえていますか。
横田千代子
婦人保護施設いずみ寮 施設長
権威をかざしたあからさまな性暴力…しかも福祉の分野で! 絶対に許されることではない! 私は婦人保護施設という福祉分野で働いている人間です。女性への人権侵害の無い社会を目指して闘っています。日々闘っています。だからこそ、今回の事件は、絶対に許せないのです!暴力の中でも性暴力は、「自分らしく生きる」ことを奪う犯罪です。婦人保護施設にたどり着く多くの女性たちも同じ苦しみの中に置かれてきています。今回も被害によって苦しむお二人の姿が浮かびます。施設利用者の加害者は、父など近親者をはじめ、様々ですが、今回の事件は、その加害者が社会福祉法人の理事長なのです。信じられません!許せません!しかも、長期にわたり君臨し、支配し、侵害してきたのです。その事実を周囲の人は気づいていた、いや、見逃してきたのではないでしょうか?重大な社会問題です!今、私の中に次々に湧き上がる怒りを込めて、法人・理事長への早急なる裁きを求めます。
末安民生
一般社団法人日本精神科看護協会 相談役
岩手医科大学 看護学部 地域包括ケア講座 教授
訴えた人の支援のため、もどかしいが、訴えられた人と私の話をする
今回、提訴した原告の2人を「信頼できるキュレーター」として私は知っている。
その1人である木村倫さん(仮名)は、突飛な発想なのにどこか柔らかな、そして穏やかな心持ちのアール・ブリュット作品を、ときに軽快なリズムにのせて、いつのまにか壁にピンでとめたり、まるで飛び出す絵本のように広げたり反転させながら、私たちの目を楽しませ、作品に向き合わせてくれる人である。作家たちの息遣いや情念と情熱は、木村さんらの手によって多くの聴衆に記憶され、作品として記録される。そして、その展覧会に立ち会った私たちはその出会いによって、存在を知らなかった作家とまるで繭の糸をつむぐように繊細につながる。実際には、展覧会にいない作家たちが作品を通して会場で物語る声を、観客である私たちは聴くことができた。展覧会の数々は、まるで地上の星座のようにその所々で明るい光を放ち、私たちはその星の光を手がかりにして作家の世界に触れ、明るい気持ちに満たされた。
そのような作品や作家と一緒に歩んでいる木村さんが訴えた被告である北岡氏のことを、私は木村さんを知るよりも前から知っている。精神科領域の看護師である私と、被告である北岡氏はともに支援職という共通基盤があり、それぞれが所属する分野のリーダーの1人として、厚生労働省の社会保障審議会障害者部会において検討委員として出会った。
その後、北岡氏らによって私はアール・ブリュットの魅力を知り、全国の看護師に呼びかけて精神障害者による作品を探した。その過程では、北岡氏と2人で精神科病院に埋もれている「作品」を探す旅をしたこともあった。知的障害と精神障害、専門領域は異なるものの、2人とも自分を含む「人々」と「障害者」とを隔てている現実と法律や生活支援施策の不備に怒り、一方で自分たちも彼らを隔てている側の一員であることを忘れないようにしようと話したこともあった。私は、隔たりをなくしていくために戦い続けている人として、北岡氏に敬意を払ってきた。その後悔は、一身に引き受けるしかない。
今回の提訴を知り、信頼しているキュレーターである木村さんがその当事者となっていることに驚愕した。報道で公開された木村さんらに対する北岡氏のおぞましい行動と長きにわたる経過を知り、木村さんからも直接に話を聞いた。
現在、ほぼ無口になっている被告らは無罪を主張するのかもしれない。合点がいかない。私が知っている北岡氏とその所属団体である社会福祉法人グローの幹部職員は「行動の人たち」である。私の知る限りにおいても、北岡氏は政治家と気脈を通じるのが上手かった。海外の要人を含む政治家や官僚、いわゆる著名人とも浅からぬつながりがある。このような北岡氏の存在感と、他者との関係性によって得られた地位は、彼の行動力によるものである。私は短い期間ではあるが、国会議員秘書をした経験があり、複数の政党の政治家と直接にかかわる機会があった。だから、政治家の本能と権力を維持するためには正義という価値判断が無化されることがあるというのも知っている。であるからこそ、北岡氏は行動力を起動して説明すべきである。周囲の人たちも直ちに「北岡賢剛理事長の無実を証明する会」を立ち上げるのが道理である。ところが、そうはなっていない。なぜなのか。それどころか、国会審議に急かされるように国の検討会の委員を辞した北岡氏の無実を主張する人が、なぜ出てこないのか。
北岡氏の周辺の人たちは「嘘は山を転がる雪玉のように大きくなるばかりだ」と無意識に思っているのではないか。北岡氏の地位や行動力の本質は疑われている。実は否定してしまいたい、誰かが「王様は裸だ」と言いださないかと待っているのではないか。誰も言い出さなければ、嘘は嘘によって塗り込められ、いつか重ね塗りができなくなってしまうのに。
木村さんらへの理不尽極まりない行動は、北岡氏が地位を悪用して、自分の欲望を充足するために彼女たちを支配しようとしたものだと確信した。私はこれまでの北岡氏とのかかわりを振り返り、いったい自分は北岡氏の何に敬意を払っていたのかと自分自身に怒りがわく。それとともに、彼の暗い二面性に気づかされて、今ではその存在に恐怖を覚えている。木村さんらの訴えは2人だけに降りかかった問題ではなく、形を変えて私も支配の対象とされていたのかもしれないと思える。私は、精神障害者の支援を続けてきた。壁にぶつかったときには、周囲の人たちに助けられながら乗り越えてきた。ときに、自分の限界をさらけ出して助けてもらってきた。今、木村さんは自分の身を挺して、私のように気づかずに北岡氏の支配下におかれた人や、緩慢な暴力ともいえる管理に縛られた人がいることを知らせてくれてもいる。私たち以外にもいるかもしれない被害者がこの裁判を自分の事として受け止めることができたら、勇気をもって戦う木村さんらと一緒に行動を起こすことができるはずだ。もしそんな方がいたら、苦しみに耐えながら毎日仕事を続けているとしたら、ぜひ、この会に声を届けてもらいたい。
Patrick Gyger[パトリック・ギゲール]
スイス・ローザンヌ芸術地区プラットフォーム10総合館長
フランス国立現代芸術センター「リュー・ユニック」 館長(2011-2020)
日本では数多くのパートナーと働いてきました。特にアール・ブリュットの分野では多くの組織や団体と長年の協力関係を築き上げています。 芸術は社会をより豊かにすると私は信じています。 なぜなら、芸術は文化や視点が異なる人々を結ぶ力があるからです。人間として生きる多様性、他者の視点を体験・体感させてくれるのです。 私はこの社会のすべての人々にとってより明るい未来を信じ、この組織の活動に賛同します。 差別・性的暴力とハラスメントを日本から無くそうとしているこの人々と共に私も声を上げたいです。 差別・性的暴力とハラスメントは人権侵害です。人々の尊厳を奪うこれらの行為に決して見て見ぬ振りをしてはいけません。 芸術家、作家、芸術関連でのお仕事をされている方々は特に、社会の価値観をアップデートする大きな力を持っていると考えます。 ジェンダー・バランスが取れたより明るい未来を想像し、それを創造していくリーダーたちになれる、と。 「同じ人間である」というただそれだけの理由でお互いの尊厳を(性別や性的指向など関係なく)守ることができるのが人類の理想の形ではないのでしょうか? 今後も日本とヨーロッパの文化交流に努めていきながら、刺激し合う関係を作っていきたいと考えています。 その先にはジェンダー・バランスが取れている世界がある事を願って。
Photo Mario Del Curto
東ちづる
俳優/一社)Get in touch 代表
セクハラは、自分が対等な人間としてではなく、単に性的な対象として扱われ、卑下されていることを刷り込み、精神的にも身体的にも大きなダメージを与えます。今回のケースも、その痛みが癒えるのにどれほどの時間がかかるのか想像を絶します。記事を読むだけでも、辛い。どれほど屈辱だったか、情けなく、腹立だしく、悔しかったか。
加害者はもちろんのこと、その状況を容認してきた人たちも同罪です。女性差別と人権侵害の罪の重さを真摯に受け止めてほしいと思います。自分の家族や大切な人が同じような目にあったら、尊厳を踏みにじられたらと、想像してほしいです。そして、心から謝罪してほしいです。少しでも被害者の心が癒えるように。
そして、同様の犯罪を根絶していくためにも。